2019-04-23 第198回国会 衆議院 総務委員会 第15号
私は、以前、親しい友人から、日本を代表して出場する選手の名前のローマ字表記が、西洋流に名前が先で姓が後になっているのがおかしいという指摘を受けてまいりました。そして、何とかしたいなと思っておりましたが、このたび、改めて、東京オリンピック・パラリンピックの開催の機会に何とかしてもらえないかという相談がございました。
私は、以前、親しい友人から、日本を代表して出場する選手の名前のローマ字表記が、西洋流に名前が先で姓が後になっているのがおかしいという指摘を受けてまいりました。そして、何とかしたいなと思っておりましたが、このたび、改めて、東京オリンピック・パラリンピックの開催の機会に何とかしてもらえないかという相談がございました。
○務台委員 話をオリンピックに戻しますと、テレビの画面では、日本人選手は西洋流の名、姓で、中国、韓国の選手は姓、名で表記されております。しかし、オリンピック会場における正式の順位表示は、日本人を含め、実は全て姓、名で表記されております。 となると、IOCの側で報道発表の際にかえているのか、報道の側でかえているのか、そこのブラックボックスがよくわからないというふうに私は感じます。
西洋流かもしれないけれども、一つの都市づくりのノウハウというものがある、哲学がある、考え方がある。そういうふうなアプローチというものは、やはりこれは少なくともよく研究しておく必要がある。
これは天皇機関説で有名な美濃部達吉博士が、敗戦直後、新憲法ができて、その解説を書かれたときにおっしゃっていることでありますが、天皇の地位は神から授けられたものでもない、いわゆる西洋流の王権神授説でありますが、それとも、建国から、以前から既に定まっていたものでもないと。そうではなくて、「国民の総意に基く。」
この一事をもってすると、やはり金融庁は怖い、やはり金融庁の意向を——世の中というのは、申し出があって決めるというのは、西洋流はそうでありますが、どうも日本社会というのは、言わず語らず目を見てわかれみたいな部分があるので、金融庁がこういうのを出したんだからわかっているよなというふうにとる金融機関が僕はあると思うんだ。足利銀行だって、別にそれはわからないですよ、見方ですよ、これは。
つまり、西洋流のバランスシートでとらえ切れないものが日本の今までの経済文明にたくさんあったということをまず認めていかなきゃいけないと思うんですよね。 そのときに、さまざまな、金融庁が判断する場合の判断というのは、そういった意味では非常に難しい判断になってくる。客観的な判断がそこにあり得るのかどうかというのは、私は非常にわからないんですよね。
ということは、そこに攻撃を加えるぐらいなら、西洋流の軍事的な組織からいったら、上層部が大きな決断をして、今後どうやって投入するかというその端緒だと、こういうふうに理解しておった、ところが後で聞いてみたら、何ということはない、全然指揮系列のないゲリラ部隊がちょこっとそこで攻撃を加えただけだったんだと。そういうふうに思い違いがあるんですね。
ここでも、女性に対しては、個人や夫婦を基礎とする西洋流を退けて、日本の女は家に嫁するのであるから、家への服従、忍耐を旨とせよという息も詰まるようなものだったのを覚えております。 ですから、私が今まで生きていた中で一番うれしいことは何だったかといいますと、真っ先に浮かぶのは実にささやかな景色なのです。それは、戦争が終わって黒い幕が取り除かれ、電灯の明るい灯がぱっとともった、その景色なんです。
ただ、自分たち流の人権を他国に押しつけることは反感を招くもとになりますし、その点、我が国が他国の立場を理解し、援助にいたしましても、西洋流、キリスト教的な施しではなく、自助努力を促すという姿勢で来たことは評価されてしかるべきだと考えております。
確かに西洋流の労働というのは禁断の木の実を食べたそのペナルティーとして課せられた労働という考え方でしょうが、我々日本人の中にある労働観というのは一ところで一生懸命働くという、天職と申しますか、そういった考え方があるわけでございまして、これはまさしく地球環境時代と言われるような中で世界の人々がお互いに調和し合って生きていくには一つの知恵のある考え方ではないかなというふうにも私は思うわけでございます。
実際いろいろ現場の医療というものも思い返してみますと、西洋流の医学をやって、どうもこれはここまでですと、それではひとつ漢方でもやってみますかというような中で、漢方医さんに紹介されるという場合も多いんではなかろうかと思うわけです。
ただ、この件につきましては、いろいろ職員となるための語学の問題であるとか、あるいは西洋流のPhDとかMAとかいうような学歴に対する評価の問題であるとか、雇用構造等が異なっておりますし、そしてまた多くの国際機関の場合、できれば出向というよりもパーマネントな形の職員を求めるというような問題がございます。
どうか鳥の問題にも、とりあえずやはり応急処置としてやっていながらも、独自性を発揮して自主的なものを失わないような、すべて西洋流の片づけ方に鞠躬如としてそれに従っているのはみっともないから、そこいらは日本と中国だからざっくばらんに話し合って両方のために実益になるようなモデルをつくって世界から見てもこっ恥ずかしくないような一つの鳥類保護の方式もつくり上げてもらいたい。
そこで最後に一言結論として感想を述べますと、それでは矛盾するのじゃないか、今度は私の説によれば、ソ連が最後に譲歩というと言葉が適当でありませんけれども、日本に対する当初の余りにも不当な要求を少し引っ込めたような形になったのは、それじゃやはりソ連というのも、西洋流の妥協とか譲歩とか調整というのをとうとぶ国民じゃないか、私の言っていることと矛盾するのじゃないかという御疑問がわくかと思いますけれども、それに
中には、日本の東洋流でいけば、物を食べておいしかったときには舌鼓を打つということで口を鳴らすのがいいのかもしれませんけれども、西洋に行きますと、スープを飲んで音をたてるとこれは大変不作法だということになりますので、西洋流と東洋流とは違うかもしれませんけれども、そういうことまで教えていだだくと大変いい習慣がつくのではなかろうかと思います。
下関条約の効力はなくなっているのだというのは西洋流の考え方なんです。しかし通説はそうであっても、処分条約というものはいつまでも有効だという説もあるのでありますから、日本が通説でない少数説をとったって別にふしぎはないじゃないか。そういう向こうの言うとおりになって、いつまでも極東が不安定な状態にあることが一体いいのか悪いのか。
そもそも防衛計画なるものは、東洋流に言うならば、すなわち、備えあれば憂いなしという考え方、また西洋流に言うならば、ダレスの提唱した真空論に導かれて立案されてきたものと思われるのでありますが、この考え方がはたして今日においても有効に通用するものでありましょうか。私の答えは、いなであります。
それはあなた、西洋流にものを考えなさるからいけない。西洋の方々が相手にプロポーズする場合には、アイ・ラブ・ユーとおっしゃるんです。しかし、東洋では、それをとらざるところなんです。東洋では仲介人がいる。直接交渉ができない場合には、仲介人を介してアイ・ラブ・ユーと言います。あなたのほうがそのつもりなら、われわれも仲介人になろうじゃございませんかと言って話をしたことがございます。
あなた方のおっしゃる暗示的治療法については、西洋医学を日本で勉強して西洋流の医術をおやりになっている日本の開業医諸君が、暗示的効果を期待する場合には、そのために処方せんをやらない方がいい。
ここに申されまする二十五倍でございまするが、西洋流の考え方では、一つの時代、すなわちゼネレーシヨンと申しますか、それは四分の一世紀でございまして、二十五と連想されるのであります。
その場合にたまたま日本では生活の様式が東洋的でそして生産の様式は西洋的であるというようなギヤツプがございましたために、生活様式が東洋的な伝統的な形であるということは言い換えれば生活水準が西洋流の計算方法によりますというと非常に低かつた。その低いことが、低く保ち得たことが逆に大きな資本蓄積を日本で行なつて、近代国家として立つて行くことを可能ならしめた原因であつた。